自分を、ころしている
なんて、物騒な、不吉なタイトルなんだろうかと。
これを打っていて思いましたが。
これは、きっと、誰でも経験したことがあるんじゃないかなぁとも思っています。
誰かに嫌われたくないから自分を殺す。
否定されるのが怖いから自分を殺す。
生きているのが辛いから、自分を殺す。
精神的にも、物理的にも、自分を死に追いやることは今やもう珍しいことではなくなっている。生きていくためには自分を殺さなきゃ息ができない。
生きるために、殺す。そして呼吸する。
唐突ですが、最近私は、よく、あっちゃんのYouTube大学を見ています。特に文学系。
(歴史的作品の魅力を、あっちゃんの高い語彙力と知識と笑いのスキルで、全力で視聴者に伝える内容になっていて、他にも日本史、経済、多方面においてわかりやすく解説しています!)
あれは、とても良い!!!!!
すごく、わかりやすくて、とっつきやすくて、どんなに文学や言葉の世界が難しそうでも、すんなり学べる。
そして、自分では知っていたと思っていた作品が、
実は知ったかぶりするレベルだったと気付かされる。教科書だけで知ったかになるのはあまりにももったいないと思った。
で、その中では私も馴染み深くて興味深い存在であった宮沢賢治、芥川龍之介、三島由紀夫、太宰治、最近ではエドワード・ゴーリーの作品も紹介されていた!
知っている作品でも、もう一度読みたい、手元に欲しいと痛烈に感じる程のプレゼン。
ただ、作品に対して読みたい!!これはこんなにすごい作品なんだ!!と感じるのは単にあっちゃんの説明力が影響してるってだけじゃなかった。
天才文豪は殆どが短命。
私が知る方々は特に自ら命を絶っている。
そこが私にとって、なんとも言えない、魅力だったのだ。
私は、自ら絶ってしまった方の理由として、物語を終わらせたことで、次これをさらに上回るものを残すのは厳しい、これが、これこそが自身を最も昇華し、表した作品だからこの次はないのだ、とか、
物語を残していく中で、世界や人生を悲観的に感じて、それらと向き合いながら今後生きていくことはできないと悟ったからとか、
作った本人がその人生を終わらせることまでが作品の中のシナリオであったから、とか。
いろんな理由を頭の中で描いていたんだけども、
とりあえずそれらをほっぽいて。
作者が既に亡くなっている、という点が、作品をより際立たせるように思えた。
生きているのなら死は当然、平等にやってくる。病気とか不慮の事故とか、運もなかには付きまとうこともあるけれど。
ただ、既に今はもう亡くなっている、会うことができない、別世界にいる、っていうことと、
自分とは違う、隔てた世界にいる人が生み出した作品だということを明確にしている。
それが、とても、…ちょっと上手くいえなくてもどかしいんだけども、
だからこそ惹かれた理由になったともいえると思った。
自身の手には届かない。人。
それはどれだけアトラクティブに映るだろう。
変な話だ。
本当に尊敬する人なら、実際に会って、話を聞いてみたいと思うのが普通だろう。
でも、もし、対面したら、
自分は何をしでかすだろう、とか、会って自分は何ができるんだとか、そもそも自分の使っている言葉は通じるのだろうかとか、会ったら何を言われるだろう、とか、
そういうことしか考えられないのだ。
地上の人間は天界の人間に触れることができない。みたいな。
作者の死も、作品の一部と加算して、より美しく感じてしまう。
それは、文学だけじゃなくて、音楽もだ。
こんな音楽あったんだ!と発見する。どんな人が作ってるんだろう?と調べる。あれ、もう亡くなってるんだ…と知る。改めてその曲を聴く。初めて聞いた時よりも儚いようで好きになる。
このパターン、意外と身近で多かったりする。
作者の死は、意図的なものと、そうでないものがあるのはわかってるけれど、どうしても、何か意味があるのではと考えてしまう。勝手に自己解釈して、また沼にはまっていく。これが通常運転である。
脱線しまくりましたが。
作品に、自分の死が添えられることで、無敵の産物を生みだす、それが、無常的、魅力的で堪らない。
全ての死が意図的でないにしろ、私はそれを称えたい。この先、他の作者、作品も、重宝され、受け継がれ、その度に読者に問題提起する時間を与えられていくべきものだと、
まだまだ歴史的作品を読みきっていないのにこうやってのうのうと語る私です。
あっちゃん、ありがとう。
あなたはどこまでも可能性があるね。
次は何に進化するのかな?